戦時中、作家の向田邦子さんは一年ほど疎開していた。私の母の実家に間借りしていたらしい。女学校の同級生だった二人は、空襲警報の音に怯えながら、裏庭のほおずきを眺めていた。向田さんはその少女時代を過ごした鹿児島を「故郷もどき」として愛した。
この街は「花の街」である。神道を崇める人が多いだけに、ご先祖様を大切にし、お墓はいつも花で賑わっている。隣の墓のしおれた花を、新しい花に入れ替える人もいる。甘い花びらの匂いは、向田さんの多感な少女時代を豊かにし、やがてあのきめ細やかな作品に変えていったのではないかと思う。
しばらく母の顔を見に帰郷していないが、知人から最近墓参りの代行サービスが盛んだと聞いた。墓守の高齢化や、さらには若者たちの県外就職で墓の生花を絶やさずにいることが難しくなっている。中には、インターネットで菊の造花を買って、お墓に供える人もいるらしい。
向田さんの『父の詫び状』の中に、人は「何かの〝はずみ〟に、亡くなった人たちを思い出すことがある(中略)」という文章がある。こうした向田さん特有の個人の偲び方は、ばたばたと命日やお盆に墓に出かけているよりは、人間の心の動きとして、自然で当たり前である気がする。
向田さんが料理の名人だったことは業界でも有名。妹さんと営んでいた小料理屋「ままや」に、会社の友人とよく立ち寄った。店が終わると、彼女の自宅に行って、手料理を頂いたことを覚えている。切り干し大根の中に、細かく刻んださつま揚げが入っている。地元では、「アジやトビウオ」の白身を使うのだが、「イワシ」をつみれにして揚げた特製のさつま揚げだった。彼女の舌は、薩摩の味がベースになっている。
ある夏の暑い日、彼女は飛行機事故で亡くなった。その夜、私はほおずきを一輪挿しにして、ほんの少し焼酎を飲んだ。
スマートフォンの影響だろうか、人と人との縁がどこか薄くなっていくように思える。人に優しくない社会になったとも感じる。無縁墓地が目立ち、墓じまいの広告も増えている。
月刊『美楽』を、スマートフォンで読んでいただくことは考えていない。人から人へ、手から手へ、この雑誌が渡されていくことが、やはり意味のあることなのではないだろうか。