30度を超える灼熱の夏が続いている。
7月初旬から、砂漠に埋もれた都市の中で息をしているようだ。街行く人の動作が、古い映画のスローモーションのように断片的で散漫。そう思う一方で、少し急ぎ過ぎた今の時代に対し、反省を促す意味で太陽の神様が警鐘を鳴らしているのかもしれない。
映画の見方が、変わってきたと聞いた。
チャプターを飛ばしながら結論を見て、そのプロセスには興味すら抱かない。読書は、最後の10ページあたりから読みはじめ、後は目次を見て終わる。先日のパリオリンピックも、とにかく金メダルの数と、順位さえ分かれば十分。マラソンに至っては、ゴールシーンを見て満足している人もいるようだ。オリンピックの開会式も、閉会式も、日本チームの入場だけ見て、後はスマホやYouTubeでトピックスだけ確認する。
何年もかけて企画されたゴージャスなストーリーは、全く無視され、削除され、ただ華やかなだけの時間が流れた。
なぜ、こんなに急ぐような時代になったのだろう。
コロナの間に、ため込んでしまった2年半の情報を整理するうちに、社会全体がより一層、薄っぺらで意味を考えない合理主義に走り始めた。さらに、進化したスマホの検索機能も手伝って〝タイムパフォーマンス(タイパ)〟といわれる時間を簡略化することを優先する人が増えたのだろう。〝即レス〟という言葉もある。SNSの影響からか、若い人を中心に、会話はおうむ返しのように、ピンポン言葉で交わされる。そこに言葉の意味や重み、価値、さらには、ロマンチシズムは皆無だ。人々の間で交わされる〝即レス〟は、やがて、薄情で、希薄で、形骸化された人間関係につながっていく。
この分だと、私が体調管理のために趣味にしているゴルフは、最後のパットだけしていれば十分というゴルファーも出るだろう。
人は時間という存在を知った時から、それに縛られて生きている。やがて、解読されたDNAは天文学的なデータとなって蓄積され、それが分析されることによって、生まれたての子どもの寿命や病気、さらには性格分析やら、職業適性やらまでもが簡単に、そして安易に判断される時代がやってくる。
見たこともない、行ったこともない国の戦争で、人々が傷ついている。そんな映像に瞬きを止める。それは自らの力の及ばない、不可能な範囲まで「情」が及んでしまうただのお節介なのかもしれない。
優先順位を考えること、情報が土砂降りの雨のように体を濡らしていく。