「麦わら帽子は、もう消えた…」
というフレーズで始まるフォークシンガー吉田拓郎の歌がヒットしてから、もう半世紀が過ぎようとしている。
この『夏休み』という歌は、日本の昔からある夏休みが徐々に、受験体制などにより、のんびりとした時間が過ごせなくなった子どもたちの生活を嘆き、さらには、都市化現象でどんどん消えていくトンボや蝶々などの姿を惜しんだものである。
今、令和のこの国に聞こえるのは、もっと切迫した声。認定NPO法人キッズドアの調査によれば、小中学生のいる困窮世帯の約6割が子どもの夏休みの廃止や、短縮を望んでいるという。つまり、「余分な生活費がかかる」「特別な体験をさせる経済的余裕がない」「仕事が忙し過ぎて、子どもが家にいても構ってあげられない」。親たちからはこんな悲痛な訴えが数多く寄せられているそうだ。
一昔前は、臨海学校や無料のイベント、家族旅行などで貴重な思い出を残せる夏休みだった。しかし、それが経済的に叶わぬ世帯は多く、これから大切な人生を生きる子どもたちの「体験格差」は広がるばかりだ。
明治の初めに欧米に倣ったという「夏季休業」は、学校の役割や教育制度と共に、根本から見直さなければならないのかもしれない。
6月の下旬から30度を超える猛暑に生活が襲われ、クーラーなしの生活は考えられない。南極の氷が溶けはじめ、地球規模で海の流れが変わり、いわゆる温暖化現象といわれるものが今後とも激しく、厳しく人間を含めた地球上のあらゆる生物に影響を与えていく。
資本主義なるものが、大量に物を生産し、大量に物を廃棄するサイクルで存在する限り、この地球という星の行く末は決して明るいとはいえない。物が豊かになり、インターネットの登場などで我々の暮らしは、どんどん便利で合理的になっていく。しかし、なぜかそれに伴って忙しさも倍になり、人と人との関係は、どんどん遠ざかっていくのではないだろうか。
夏休みの宿題を終えると、時を忘れて海に出かけた。錦江湾の、秋を感じさせる冷たい波が、今でも記憶の海辺に押し寄せてくる。
子どもたちにとって、退屈なほど時間が有り余った夏休みというのは、〝美しい過去〟の話である。