米山 公啓|Yoneyama Kimihiro
1952年生まれ。医学博士。専門は神経内科。聖マリアンナ大学医学部卒業、超音波を使った脳血流量の測定や、血圧変動からみた自律神経機能の評価などを研究。老人医療・認知症問題にも取り組む。最初に雑誌で連載を持ったのは1990年1月。聖マリアンナ医科大学第2内科助教授を1998年2月に退職。本格的な著作活動を開始。現在も、東京都あきる野市にある米山医院で診療を続けている。年間10冊以上のペースで書き続け、現在までに300冊以上を上梓。2021年には時代小説作家(根津潤太郎)としてもデビューし、時代小説『看取り医 独庵 隅田桜』(小学館時代小説文庫)などを出版。講演会、テレビ・ラジオに多数出演。主なテレビ出演「クローズアップ現代」「世界で一番受けたい授業」など多数。また世界中の大型客船に乗って、1990年1月以降、クルーズの取材を続けている。
目次
本音で語る医療と人生——認知症予防に大切なのは「楽しく生きる」こと

病院や医局に所属していると、おかしいと思ったことをおかしいと言えないーーこう話すのが米山医院院長の米山公啓医師だ。大学病院に勤務時代、高齢者患者に点滴をして寝かせておくだけの老人医療に疑問を抱いた。医師の本音、医療現場の真実の姿を世の中に知ってもらいたいとエッセイを雑誌に書き始め、やがて医師と作家の二足のわらじを履くように。究極の趣味人であり、年齢を足枷にしないチャレンジャーでもある。脳神経内科医の立場から「やりたいことをやり、楽しく豊かに生きることこそ、最大の認知症予防」と話す。
閉塞した病院や医局へ嫌気を感じ、看護雑誌へ本音エッセイを掲載
最初に私の本が出版されたのは1992年。『大学病院・医者ものがたり』というエッセイです。ページをめくってすぐの「はじめに」は「医療は本音と建前の世界である」という書き出しで始まるのですが、まさにそう。当時の医療界では、「患者に寄り添う医療が大切」なんて口にしながら、実際は「本当にそう思っているのか?」と言いたくなることが平然と行われていました。
たとえば高齢者を多く受け入れている病院に行くと、患者さんが手足を縛られた状態で寝ているんです。そして、ほとんど無意味に近い点滴が行われ、ただただ生かされている。「延命治療」という言葉もない時代ですが、普通に考えて「おかしい」と感じるはず。しかし声を上げる医師はいない。老人医療のあり方に疑問を抱き、おかしいと思ったことをおかしいと言えない閉塞した病院や医局に嫌気がさしていました。そんな時、たまたま知人のナースが看護雑誌に寄稿していた縁で、私もエッセイの連載を持つことになったのです。
医師も俗人。あるがままの姿を伝えることが、患者さんのタメになる
患者さんが思う医療と、医師やナースの本音はあまりにも違い、誤解もある。患者さんは医師も俗人であることを知って、もっと上手に医師を利用すべき。そう考え、あるがままの医師の姿を伝えたいと、所属病院と本名を出し、医療の本音を綴りました。エッセイですから面白おかしいテーマを拾ってはいるものの、読者にしてみたら、現役医師が書いている、いわば内部告発です。偉い先生の本はあっても、名も無き医師の本音本はありませんでしたから、それがウケたんでしょうね。
エッセイ出版後、複数の出版社から執筆の依頼をいただくことになり、医療実用書、エッセイ、医学ミステリー、小説など、執筆の幅が広がっていきました。テレビ出演や講演が増え始めたのもこの頃でしたね。一方で、医療の内幕を執筆することに対しての大学病院内部からの風当たりは強くなっていきました。悩んだ末、大学病院を辞めたのが1998年、46歳の時です。父が開業した米山医院やいくつかの病院で診療をしつつ、年間10冊以上のペースで書き続ける、医師と作家の二足のわらじを履くようになったのです。
母が脳卒中で認知症。9年間自宅で療養生活

大学病院を辞めた年は、母が73歳で亡くなった年でもあります。60歳代で脳卒中による認知症を発症し、9年ほど自宅で療養生活を送りました。父と私の2人の医師が近くにいながら、高血圧症の発見が遅れ、その治療も不十分であったことが、脳卒中を発症した最大の原因でした。治療があと10年早ければ、認知症になるのも10年先延ばしにできた可能性が高い。そういう意味では防げる認知症でした。
母が亡くなってから、いろいろなところから母が残したメモ書きが出てきました。そこには認知症の初期症状で苦しむ様子が書かれていました。母は、父や私には自分のことをあまり言わなかったので、そのメモ書きを読んで初めて、母が壊れていくことを自覚し、恐怖や苦しみを感じていたことを知りました。
私の専門は神経内科で、認知症患者さんを診ることが多く、高齢者の方々と接する機会も多い。しかし医師として見えている世界と、患者の家族として見える世界は異なると、母の認知症を通して痛感しました。父はよく「医者を何十年もやってきても、介護の大変さがこれほどのものとは知らなかった」と漏らしていましたが、医療は医師やナースが見えるものが全てではない。当時から、認知症に関する文章を書くときは、たびたび母に登場してもらったのも、読者に認知症の知識を得てもらい、患者さんや家族の役に立てば、母の存在を証明することになると思ったからです。
高齢になったら「治す」より人生を豊かにする方に軸を置き、基準は緩めがいい
母は高血圧症の治療が遅れたために脳卒中を起こしたわけですが、一方で思うのは、人生は長さではなく、いかに豊かに生きるか。もちろん、健康のためには生活習慣病があれば治療を受け、規則正しい食生活、適度な運動が大切です。しかし、80歳、90歳になったらもう、血圧や血糖値の基準は緩め、血圧や血糖値をそれほど気にせず好きなものをおいしく食べていく人生のほうが幸せなんじゃないか、と。薬に関しても、高齢者では「治す」より人生を豊かにする方に軸足を置き、不必要なものは出しませんし、場合によっては減らす方向に持っていっています。父の代から親子2代、3代にわたって来院してくれている患者さんたちも多く、そういった方々は、私の医療への向き方をいいと思ってくださる方々だと思うんですよね。
豊かに楽しく生きることこそ認知症対策に

豊かに生き、日々を楽しく過ごせば、脳に良い刺激を与え、認知症対策にもなるはずです。私自身、興味のあることが多く、やりたいと思ったらすぐに始めるようにしています。小説の取材を兼ねて乗ったクルーズ船にはハマり、世界中の客船に乗りました。犬型のホテルの写真をたまたま見たときは、アメリカのアイダホ州のホテルだったのですが、すぐさまネット予約し、泊まりに出かけました。
60歳を過ぎて始めたのが、ピアノです。最初は独学で電子ピアノで弾いていたんです。そのうち「グランドピアノがいい」と思うようになり、新宿の楽器屋に行ったら、スタインウェイの1968年製ビンテージがあった。「これください」と購入し、ピアノを演奏している動画をSNSに上げたらプロのミュージシャンからメッセージが来た。その縁で、彼を自宅に呼んでコンサートを開いたこともあります。68歳の時には、時代小説家「根津潤太郎」としてデビュー。処女作が出るまでは、編集者から「あれもダメ、これもダメ」とそれはもう大量のダメ出しを受けたのですが、これまで書いてこなかったジャンルにチャレンジし、知識が増えるのは本当に楽しい経験でしたね。
患者さんから「好きなことをやっているほうが、なんでもいいですね」
そしてこの数年、熱中していたのが「タビランド」つくりです。タビというのは、急逝した愛犬の名前。ビンテージのキャンピングトレーラーを2台置いて宿泊も可能なようにDIYし、バーベキュー施設を作る。休日には友人知人、仕事相手、編集者などを呼んで、タビランドでおしゃべりをし、ハンバーガーやパスタなどの手料理を振る舞う。今年予定しているのが「俺の文化祭」です。つい先日の夜中に思いついたんです。画廊を借りて、趣味で描き続けている油絵などの作品、監修したCDなどを並べる。大掛かりなパーティーを開こうと考えています。人生100年時代。面白いことをいっぱい見つけて、脳も体も元気で過ごす。患者さんからも「好きなことをやっているほうが、なんでもいいですね!」と言われます。
米山 公啓
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