やはり、再び起こってしまった。濁流となって押し寄せた津波は、漁船を岸壁に打ちつけ、街は泥水の池に変わってしまった。新年のお節を食べていた人々は、だるま落としのように、材木の下敷きになってしまった。
被害の規模は、正確には把握できていない。倒壊した家屋や、地下に張り巡らされた水道管やガス管、さらには電気などの生活の基盤が寸断され、切断され、これらの供給網が壊滅的だ。
断水の世帯数は5万とも6万ともいわれ、停電の世帯は1万を超えている。避難先の町役場や小学校ですら、水もなければトイレもない。翌日から能登半島は体を凍らせる零下と豪雪に襲われ、被災者の苦難は肉体だけでなく、精神や心をも冷え切らせてしまう。この数カ月は、自衛隊や他県から派遣された警察官、さらにはボランティアなどの活躍と支援で、かろうじてその日暮らしの生活が続く。
やがて春が来て温度も上がり、少しは和らいだ日差しが彼らの救いになるのであろうが、雪解けした瓦礫の下から、新たな行方不明者も発見されるのであろう。
日本という国は1万4125の島で成り立っていて、その島の下には、5つのプレート(地盤)が折り重なり、入り込んで、その断層には大きな歪みをはらんでいる。いつ、どこでどの程度の規模の地震が、私たちが生活している場所を土の中に沈めてしまうかは分からない。
東日本大震災の行方不明者の所持品は、今でも気仙沼や石巻に漂着してくるという。岩手県警や福島県警は、地元の海上保安庁とともに、人知れず地道な捜索活動をしている。世界中のどの国を見ても、このような公務は見当たらない。警察官が海岸で海に向かって黙祷を捧げる。津波から身を守るために新設されたブロックの隙間に、熊手やほうきを入れて遺品を探す。名前が消えかかった子どもの靴や、海藻にまみれたセーターが、長い時間をかけて里帰りをするのだろう。
人間の悩みの大半は、未来の中にあるという。人類は、準備をすることで、恐怖と不安を乗り越えてきた。しかし、いざ、事が起こると、現実的な対応は想像を絶するほど困難だ。地震や台風などの天災には、水やバッテリーなど、ある程度のもので準備できるが、「病んだ心」は、癒せない。
残念ながら私たち人間は、災いが自分の身に起きるまで、傍観者的な動物なのだ。
被害者にどこまで寄り添えるか、それによって、日本という国が、どれくらい人間を愛せるか、という品性を試されている。
