以前勤めていた会社が、一足早くインターネット事業を始めた時の話である。
米国のペンタゴンで軍事システムの研究をしていたホセという一人の若者を採用した。今でいうところの、優秀な技能研修生であった。
ホセの出身地は原油埋蔵量世界1位であるベネズエラの首都カラカス。家庭は裕福で、その民族性か底抜けに陽気な性格であった。当時の経営者がなぜか、私とホセの性格が似ていると錯覚し、同じプロジェクトに配属した。
彼は日本を旅立つ日、行きつけの寿司屋で故郷の話をしてくれた。軽く日本酒を飲んで表に出ると、目黒川沿いの桜が散り始め、夏の訪れを告げていた。
ポケットからコンパクトカメラを出したホセは、桜の幹にかかる満月を背景に、何枚もの写真を撮影していた。話を聞くと、カラカスには桜がないと言う。故郷にはない光景を、日本の魅力の一つとして、心に刻み、写真を家族に送るという。
現在ではめったやたらにスマホを取り出し、レンズを自分に向けて撮る若者をよく見るが、そんな時代ではなかった。
以前、富士フイルムから広告制作を依頼され、東急エージェンシーにいた馬場マコトさん(故人)と四苦八苦しながらテレビCMを編集した。米国の若き大統領ケネディの演説を、ハイスクール時代のクリントンが聞いているという奇跡的な写真を発見し、それを素材にした。
人の記憶は、果たして必要なのか、と考えることがある。脳のHDD(記憶量)は無限大だというものの、日に日に入ってくる新しい情報を映像化して残すには限界があり、特に、不必要な情報は、自動的に削除してしまうらしい。
今の時代が、後にどんな映像を残し、人々に記憶されるかは分からないが、どうも残すべきものと、消していいものの基準がまともに判断されている気がしない。
映像とともに、記憶されるものの一つが音である。あるヒット曲を聞くと、その歌が流れていた時代の背景や、食事をした店、横にいた人が、まるで昨日あったことのように、鮮明に浮かび上がることがある。
今月号表紙のさだまさしさんの歌は、何百万人のたくさんの思い出を呼び起こすための〝糸口〟になっている。彼自身も、多分、記憶にとどめたい光景を言葉にして、歌っているのではないか、と思うことがある。
ホセの好きだった歌は、さださんの歌う『案山子』という故郷の母親が東京に出てきた息子を想う歌である。インターネットによって、伝えるべき情報の速度が速くなったものの、伝えなくてはならない情報は、決して急ぐものではない。
そして、残すべき記憶は、いつも、鮮明な記憶として、人生に蓄積されている。